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自分の身体、自分の精神だと思うと雑に扱ってしまうが、
何か偉大なもの、神様仏様からあずかったものだと思うと丁寧に扱おうという気持ちが生まれる。
部屋をきれいにしたり飾ったりするのは仏壇を荘厳し仏間で香を焚くのに通じるところがある。
街を歩くとき、韋駄天の加護があると思うと早く無事に歩けるような気がする。
口上をいうとき、弁財天の加護があると思うと活舌がなめらかになるような気がする。
寂しいとき、観世音菩薩や阿弥陀如来や大日如来はよしよしと聞いてくれそうな気がする
四国を徒歩で旅するとき、弘法大師が一緒に歩いてくれていると思うと楽に歩けるような気がするのとたぶん同じ
何か理想ロールモデルのようなものになりきることで毎日の暮らしが少し楽になることがあるのかもしれない。それが宗教の現世利益の側面の一つかと思う。
だからただの生物として汚部屋で不潔にしていることは、神様仏様、世の中の素晴らしい何かの力を利用しないことでとてももったいないことなのだと気づいた。